リュドミラ音楽・ひとり旅日記

Give every man thy ear, but few thy voice.

ツァーリと民衆、そしてこどもの死 パリオペラバスチーユ《ボリス・ゴドゥノフ》雑感

 現在パリオペラバスチーユでは、ムソルグスキーのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》の初稿版が上演されている。1869年初稿版はここでは初上演とのことだ。指揮はVladimir Jurowski 演出はIvo van Hove である。
このふたりの指揮(音楽、舞台において)によるこの上演は非常に有意義であると私は考える。言わずと知れた Ivo van Hove はシェイクスピアの悲劇演出について高名である。(シェイクスピアの悲劇で彼が手がけていないのは《リア王》だけ。これも演出をする予定はあるそうだ)《ボリス・ゴドゥノフ》はシェイクスピアの《マクベス》《ジュリアス・シーザー》《リチャード3世》のテーマを引き継いだ史劇として語られることも多い。特に王位簒奪者ではあったが実際は為政者として評価すべき人物であったマクベスとは似ている部分が多く、しばしば引き合いに出される。
V.Jurowski は、初稿版の音楽的価値と優位性を表現する上演をすでに行っている。

 

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 上記は再構成版と言っているが、楽譜自体には手を加えておらず、現代的な舞台とHIPな演奏は矛盾することはないとの意見である。今回のパリオペラ座の舞台はユロ兄の追及する《ボリス》がさらにスケールアップしたものではなかろうか。

 実際の舞台も観に行く予定はしているが、初日の公演が配信されていた*1ので予習的に鑑賞することができた。
舞台装置は中央の大階段と椅子や机というシンプルさで、バックのスクリーンに投影されるビデオで場所や心象風景を表現している*2。衣装も貴族議員たちはスーツ、聖職者たちは黒っぽいシャツの上にロングコート、民衆はさまざま、ときちんと立場別に分けてある。
ちょっと残念感があるのは戴冠の冠で、英国王冠のような…つまり一般に王冠というと思い浮かぶ形のものが使われていて、ロシアのモノマフの帽子ではなかったことだ。

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モノマフの帽子

この舞台ではボリスのドミトリー皇子殺害は事実である(あるいはボリスの脳内では完全に事実)としている。それがプロローグから全開で表現されている。何人もの子どもが常に迫りくる。怖い。ボリスの本当の苦悩はクレムリンの居室でのモノローグにあるように、ロシア大飢饉と天災の頻発という時期における為政の困難さであるのだが、それはさらっと流す勢いのマクベス的王位簒奪と皇子殺害の罪の意識が大スクリーンに映し出される。*3

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ドミトリ皇子の死

ほかの演出よりいっそう舞台には出てこない死んでしまった皇子の存在が感じられるのだ。良心の呵責に耐えかねるボリスは、妙にいい人のように見えてしまう。ふたりの題名役いずれも「善人」感がある。悪いのはシュイスキーと民衆か。

一貫した「こどもの死」のモチーフのトリをとるのが、フョードル。初稿版ではリトアニア国境の居酒屋の場面から姿を消して出てこない偽のドミトリが最後の「こどもの死」の始末をつける。これには唖然としてしまった。通常は「ボリスの死」で終わる初稿の舞台が、さらに先の結末にまで行ってしまうのだ。
このフョードル役がやたら目を引く女の子で、史実にあるフョードルが即位したのと同じ年齢16歳のEvdokia Malevskayaちゃん。ロシアでは歌手兼俳優として子役から大活躍している子のようだ。ミハイロフスキー劇場でのユロ兄のピリオド《ボリス》にも同役で出演している。メゾソプラノか12,3才のボーイソプラノが演じることの多いフョードル役を賢しげな少年に見える容姿と歌唱で、非常に巧く演じている。
ピーメンが語る「ウグリチの聖ドミトリ皇子」にもオーバーラップするようになっている。

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ウグリチのドミトリ皇子

ここ10年ほどで初稿版はずいぶん上演されるようになっている。オペラ的にはポーランドの幕がある方がウケがいいのだろうが、ドラマ的には初稿の方がおもしろいと思う。 実際の音と映像の圧がどのように感じられるか、とても楽しみだ。

ちなみにEvdokiaちゃんは子役(16だと子役とは言わないのかな)スターなので、こんな番組にも出てボリスレポートをしていたのだ。

ru-clip.com

*1:視聴地域制限があり、日本では見ることができなかったが、ご厚意により録画ファイルをいただいた

*2:昨年同演出家の《サロメ》でも同様にビデオ背景であった

*3:ROHの初稿版でも残酷な場面があって不評だったようだが、詳細はわからない