リュドミラ音楽・ひとり旅日記

Give every man thy ear, but few thy voice.

Valery Gergiev & The Mariinsky Theatre Orchestra in Nagoya

at AAC Concert Hall, 16 October 2014

シチェドリン:お茶目なチャストゥーシュカ
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
Daniil Trifonov アンコール、ドビュッシー:水に映る影
チャイコフスキー:交響曲第6番『悲愴』

マリインスキー歌劇場管弦楽団の名古屋チャイコフスキープログラムに行ってきた。
マリインスキー管の名古屋公演がある時はたいてい行っているのだけど、今回ほど充実した気迫に満ちた演奏は(少なくとも名古屋では)聴いたことがない。
前半が終わったとたん、同行の友人と「こりゃなにごとか?」と言い合ったほどだ。
うねりと音圧がすごい。悪いけど、ピアノコンチェルトはオケ楽器の1パートとして(しかもかなり気が抜けた感じの)のピアノとしか聞こえなかった。半分くらい*1寝てしまった。
ソリストの Daniil Trifonov は、見かけに違わず繊細でやわらかな音づくりをする技巧派のようで、アンコールで弾いたドビュッシーはとてもよかった。若くて*2 可愛い顔をしているし、ソロリサイタルなんかを聴いた方がいいかもしれない。Gergievはソリストのアンコールの時に、いつも端っこにたたずみ、そっと見守っている風情。その姿はとても優しい。
今日はなんかちがうな~、とか言い合いつつホワイエに出て、ほかにも来ていたオペラ仲間と話していたら、Gergievの親友*3K先生登場。今回のツアーには地方にもついて行っているそうだ。「この後の悲愴、すごいから。」ときっぱりおっしゃる。
4年前の公演でもチャイコフスキーの*46番はきいたよな~、今回東京ですごかったというショスタコーヴィチの*58番を、むしろ私は聴きたいなあと思いながら席に戻った。

 実は前にこのオケで聴いて以来『悲愴』は聴いていない。久しぶりなとこへ、のっけからやられてしまった。この分厚い壁のようなopaque*6な音はどうだろう。ざらざらしたテクスチュア。でも野蛮なロシア色というのでもない。これはピョートル大帝の夢の都サンクトペテルブルクの音だ。ロシア的なものを内包しながら、西欧のきらびやかさをまとったチャイコフスキーの作品だ。
おおざっぱなディミヌエンドもご愛嬌。圧倒的な音楽の力を感じる。
指揮者の問題の棒は、今回は爪楊枝ではなかった。ピンチョスみたいな指揮棒とひらひらさせる掌だけでなく、呼吸でも指示しているのがわかった。よくうなったり歌ったりしている指揮者はいるがそういうのでもない。*7しゅうぅ、という風の音のような呼吸音。運動する時の呼吸法みたいだな、と思った。後半には譜面台も置いていなかったので、だんだん真ん中の奏者に指揮者が迫っていくのだ…。ひ〜!(((((((;´д`))))))) 
ともあれメジャープログラムのおかげか、今回は9割方客席は埋まっていたし、なぜか和服の女性も多く、全体に活気と充実感あふれる演奏会だった。
今年のツアーは、きっとどこでも絶好調でいい演奏を聴かせてくれたのだと思う。2年後にはまたオペラも来てくれる。楽しみに待っていよう。

 おまけ*8:2月に聴講した亀山郁夫氏の講演内容メモ。ショスタコーヴィチの交響曲について。

交響曲第5番
歌詞のない音楽はさまざまな音楽的しかけを内部に設けることができる。また、スターリンに対するあからさまな礼賛を避ける。
最後の大太鼓の連打の数は、棺桶の釘付けの数と一致している。37年の恐怖の暗示。
交響曲第6番
チャイコフスキー6番「悲愴」に対する「反悲愴」
交響曲第7番
戦争の悲劇的な力を描くのではなく、市民を励ます音楽。開放感⇒ゲフテルのいう脱スターリン現象
スコアにして40ページを占めるエピソードの部分がラヴェルのボレロにならっているのは明白。
後半はかねてから指摘されているとおり、レハールの「メリー・ウィドウ」第一幕からの引用であろう。ダニロが、ショスタコーヴィチの息子と同じ名前の「マキシム」で夜通し遊ぼうと歌うくだりである。「メリー・ウィドウ」は、ヒトラーの好んだ音楽というから、ファシストの侵入を示すための引用と考えるのは不自然ではない
交響曲第8番
ロストロポーヴィチが最高傑作ではないかと言った曲
賛否両論を有無/純器楽的構成が感情移入を拒否
全5楽章 戦争(スターリン)の勝利を暗示する不吉な未来を表象したものか
交響曲第9番
反「第九」第二次大戦終結。 スターリンとともに歓喜しない決意
交響曲第10番
ショスタコーヴィチの「歓喜の歌」
ショスタコーヴィチ自身のドイツ語表記による音楽モノグラム(D・SCH)の登場
自分のイニシャル音型を、当時の恋人の名前の音型にからませるなど、意味づける主体の意味を絶対視した作曲。
交響曲第10番以降深刻なスランプ
スターリン音型EBCの音型
交響曲第13番「バビ・ヤール」⇒現実の戦い⇒象徴層での意味づけは極度に薄い
交響曲第14番「死者の歌」⇒自己沈潜のはじまり⇒自伝層での意味づけは濃厚
交響曲第15番 総決算 ロッシーニとワーグナーへの回帰 ロッシーニとワーグナーは革命初期に大いにもてはやされた音楽 ワーグナー自身のロッシーニに対する共感が原点にある
音楽の原点ての問いかけ「ジークフリートの葬送」に自伝的な意味を重ねる
ブリュンヒルデの愛に気づいたジークフリート=ショスタコーヴィチ
1970年代初めに第二の温暖化=ワーグナーがタブー視されなくなる

 

 

 

 

*1:これでなにごとか、とは何事か、だ

*2:23歳。しかしすでに頭髪の存続が危ぶまれるタイプみたいなので、今のうちに見といたほうがいいぞ

*3:於 日本

*4:チャイコフスキーの交響曲第6番とGergievの関係は、亀山郁夫氏の著書『チャイコフスキーがなぜか好き』プロローグを読むと、明瞭簡潔に内容がわかる。ご参考までに。

*5:前回は5番。悶絶もののカッコよさなのだ

*6:不明瞭という意味ではなく不透明というつもり

*7:P席側にいたので、指揮者の姿はよく見えたのだ

*8:というか自分の備忘録代わりに