リュドミラ音楽・ひとり旅日記

Give every man thy ear, but few thy voice.

Elisabeth Kulman, Semyon Bychkov & Wiener Phillharmoniker at Wiener Konzerthaus 20092015

前回のウィーンと同じくコンツェルトハウスでコンサート。
東京春祭で聴き損ねている Elisabeth Kulman のヴェーゼンドンク歌曲集をウィーンフィルで聴けるという僥倖。
加えてハイドン、シュミットの交響曲という、いかにもウィーンっぽいプログラム。


Joseph Haydn: Symphonie e-moll Hob. I /44 "Trauer-Symphonie" (vor 1772) (30')

Richard Wagner: Fünf Gedichte von Mathilde Wesendonck
(Bearbeitung für sopran und Orchester: Felix Mottl)

Franz Schmidt: Symphonie Nr.2 Es-Dur

Wiener Philharmoniker
Elisabeth Kulman: Sopran
Semyon Bychkov: Dirigent

あまり古典的ではないハイドンの「悲しみ」と、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスもワーグナーも感じさせるシュミットの交響曲2番。ゆるく手をつないだような音楽のつながりを感じる内容だった。

 ハイドンの44番、薄めのオケで優雅なアンサンブル。本来悲しみをたたえた旋律のはずが、軽やかな優美さゆえに第3楽章の調性そのままの明るさが際立つ。
Bychkov の指揮はきっちりと確実に音をつくっていく。妙な緩急などない。作品自体が古典的ではないと思うが、この音は現代音楽にも通じる。違和感なく次のワーグナー、シュミットへとつながっていくのだ。

さて、Kulman のヴェーゼンドンクリーダー。
私はこの日、ある特別な想いを持ってこの曲を聴いていた。
当たり前だが、端正なドイツ語ディクション。オケの優雅さに見合う可憐な歌声。
彼女の理解と表現を聴衆に確実に手渡す、丁寧なフレージング。
理知的な彼女のパフォーマンスは、この作品によく言われる憂愁と官能性の存在は薄く、前のハイドンの「悲しみ」のような、一種の明るさを感じる。
もしKulman 以外の歌手で情感いっぱいで歌われたら、この時の私の状態ではまともに聴いていられなかっただろう。彼女の歌唱は救いでもあった。
最後の「夢」を歌っているときだったか、彼女は少し後ろによろけた。どうしたのかな、と気になったがそのまま歌い続けていたし、バランスを崩しただけだと思った。

歌い終わって、前半のアプローズ。盛大な拍手の中で、ちょっと挙動不審な彼女。
おもむろに靴をぬぎ、床の隙間にはさまってしまったヒールをひっこぬいた。
「とれたわ!」と言わんばかりに、それを高く掲げてにっこり。意気揚々と舞台袖へと歩いていった。よろけた理由はわかったけど、倒れてしまわなくてよかったよ。
ここで休憩。
歌劇場も、ムジークフェライン*1もここも、日本人のお客が多く、ドイツ人のお客も「日本人多いなー。」と話しているのがきこえた。

後半はシュミットの交響曲2番。日本ではあまり聴く機会はないけれど、作曲家はウィーンフィル*2のチェリストであったし、オーストリアでは演奏されることは多いようだ。Bychkov もけっこうこの作品を指揮してもいる*3
3楽章形式で、第2楽章の主題とバリエーションがなんともおもしろい。
バリエーションに幻惑されてしまいそうになるが、この曲にもたしかに薄明るい悲しみの表現があるのだ。
ブルックナー、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスの音楽の影響を感じる。ウィーンらしいこのプログラムをしめくくるにふさわしい、最後まで優美で規律感あふれる演奏だった。

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指揮者もオケメンバーもにこにこ。聴衆も満足。

演奏会終了後、昼食をとろうとナッシュマルクトまで行ったが、この日は日曜日でお休み。アンデアウィーン劇場の近くのカフェレストランが開いていたので、そこでおもむろにシュニッツェルを食してしまった。

*1:コンツェルトハウスに向かう途中に通るので

*2:ウィーン宮廷歌劇場の時代

*3:BBC proms 初演でも