「カウンターテナーリサイタル」と、銘うたれていたが、あえてふたりの「リュートソングリサイタル」と、私は言いたい。
ウィグモアホールでの同様のリサイタル
ウィーンに出かける前日*1、iestynのリュートソングリサイタルを聴いた。中学生の頃からシェイクスピアの作品が大好きな私。*2音楽も、今はバロック好みの比重が高いが、もともとは中世~ルネサンス~初期バロックが好きだ。
シェイクスピアと同時代、英国ルネサンスの巨匠ダウランド(だけではないが)のリュートソングを、目の前でしかも英国カウンターテナー筆頭のiestynで聴けるというのは、幸せなことだ。
音楽の三要素のうち、基本となるのはリズム。それは声楽曲の場合、詩の韻律と一致し、ひとつひとつの言葉を正確に伝えることが重要だ。
iestynのそれは正確無比で、私は彼の歌を聴くと、ローマ時代の碑文を思い浮かべる。
今回も、メランコリックな曲のなかに、突如灰色の石碑に刻まれたローマンキャピタルが見えてきた。リュートソングにこの想起は似つかわしくない。しかし、彼の歌唱とブレない声が、私にそう見せるのだ。
メランコリックな部分はリュート伴奏にまかせよう。それぞれ正確な技術に則った現代的な解釈が、みごとな声楽作品を新鮮に再現してくれる。
Dunfordのリュートは、伴奏もソロも自己主張が激しくなく、でも活き活きと明るいものだった。歌曲の伴奏の折には、常にiestynの顔をななめ下から覗き込むようにしていたのが印象的だ。
主人のご指示を待つ忠犬の態で、かわいい顔立ちからもわんこの様。以後「わんこリュート」と呼ぶことにした。
わんこリュートは、ご主人様のいないソロの時も、丁寧にたんたんと演奏する。自己主張やあくを感じるところもなく、典雅な音色をつくっていた。リュートの音の魅力も堪能することができた。
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特筆しておかなくてはならないのが、お客の着物率の高さだ。
宗次ホールは約300席で、私が座っていた一階は200席ほど。そこに10人以上の着物女性客がいたのだ。*3 これは歌舞伎でも能の公演でもない。
オペラ公演では着物姿の人を見かけることもあるが、コンサートでは珍しい。
どういう現象だったのだろうか?
iestynは(おそらく)自分のコンサートに現れる着物の女性は見慣れているので、不思議そうでもなかった。
サイン会にて、iestynとわんこリュート。この時はご主人様のお顔は見ていない。