リュドミラ音楽・ひとり旅日記

Give every man thy ear, but few thy voice.

Der Fliegende Holländer MET Live in HD

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ロンドンから戻った時点では以前のSARS流行時とさほど変わらず、COVID-19も収束するだろうと考えていた。3月にはMETに行くつもりでもいた。
ところが情勢は2週間ほどで劇的に変わった。METは3/12に劇場閉鎖と以降の公演を全て中止と発表した。この《さまよえるオランダ人》新プロダクションは3/14にライブ配信される予定だったので、当然それも中止となった。初日のラジオ放送はあったがHDの映像配信がないというのはショックだった。その後EBUのラジオ各局で3/10の公演が放送されたので録音だけあったのだと思った。それだけでもありがたかったが、なんと録画もしていたということで今季最後のLive in HDで公開されることとなった。
いつものように簡単なナビゲートもあり配信用のテクリハで撮られていたのではないかと思う。METのライブ配信は10年以上の実績があるので通常と変わらない録画もできていたのだろう。本当に嬉しい。おそらく今後同じようなオペラ上演はできなくなる。旧形式最後の記録になるかもしれない。

アポカリプティックな《パルシファル》の舞台がおもしろかったGirardの演出は、同じようにコリオグラフィとライティングに凝ったものだった。序曲のゼンタのダンスと船乗りたちの振付が幾何学的で音楽と一致している。ラジオで音だけだとかなり緩慢にきこえた演奏が、ダンスがあるとそのゆっくりテンポがぴったり。舞台付きの音楽というのはこういうものかと気づかされた。ワーグナーの作品は演奏会形式でけっこう満足してしまうのだが、舞台に合わせて完成するものもあるのだ。レジーテアターの正しいかたちなのかも。

デコールは船の舳先くらいしかないし、ゼンタたちの糸車はロープなので「船」のアイテムしか出てこない。空も海も幽霊船もライティングで表現されているが、それでじゅうぶんだった。おもしろいのは、主要キャラクターがお互いに一定の距離を保っていて近づかないことだ。通常ならここで手を取るだろう、抱き合うだろうというところは全てはぐらかされる。かろうじてゼンタがダーラントの頬に一瞬キスするのが濃厚接触か。すでにこの時点でソーシャルディシタンシングなのかと考えてしまうくらいだ。船員と娘たちはある程度の合唱ボリュームが必要なので密接だったが。キャラクター間の心情に実は距離があるということなのかな。父娘、恋人、運命のひと、と一見親密な関係があるように見えるが、それぞれ自分の世界から出てきてはいないように思われる。人間関係としてはドライなのだ。だからゼンタも自己犠牲的な感じはしない。任務遂行なのだ。最後も海の表現は娘たちの波打つ腕で、ゼンタはそこに消えていくというものだった。その前にオランダ人はさっさと姿を消すので救済があったかどうかもよくわからない。

これまで山ほどゼンタを歌っているKampeはMETでは今回初めてゼンタを歌ったとのこと。私はミュンヘンで彼女のゼンタを見ている。その時よりずっとよかった。ミュンヘンのは演出が自爆系でゼンタ狂乱型だったからだ。
METデビューの藤村さんは今まで聞いたマリーのうちでは最も線の細い感じがした。歌唱そのものはいつものように文句なし。
目立ってたのがSergei Skorokhodovで、彼はマリインスキでエリックを長く歌っているし、安定した大声を持っているので評価は高い。だからといって、ほかのワーグナー作品にはそんなに出演していないのだ。普通にイタオペ向きかなと思っている。
Franz-Josef Seligはダーラントを歌わせたらこの人、というのをすでに確立している。私は大好きだ。
さて題名役のZhenya。初日の放送を聞いた時には予想はしてたが、ひどい緊張がうかがわれてヒヤヒヤした。いくら慣れたGergievの指揮とはいえMETで新演出の主役というのはプレッシャーだったろう。ただ一度乗り越えてしまえば後は難なくこなしていくのが常なので3回目のこの公演は心配していなかった。不気味さ、怖さという表現は彼にはなく、もともともっている繊細な美声を活かした抒情的でロマンティックな役作りだった。
よく一本調子と言われることがあるが、これはヴィブラートをほとんどかけず、音程に忠実なためだろうと思う。
黒い時代風の衣装もよく似合っていて素敵だった。
Zhenyaのワーグナーレパートリーの中で、やはりこのオランダ人が一番合っている。
またマリインスキオケ以外でGergievの指揮にきちんとついていくメトオケと素晴らしい合唱団のポテンシャルの高さを久しぶりに聞いて再認識した。
年内のMETの再開はなく、来シーズンの新プロダクションの計画もなくなった。Zhenyaはミュンヘンのコープロ《炎の天使》に出演のはずだったが、また別シーズンへの延期となった。
いつかまた華やかなMETの舞台を見たいと思う。